批評と感想(5)~宇宙戦艦ヤマト2199を見終えて
ども、先週の「宇宙戦艦ヤマト2199」最終回の衝撃が未だに尾を引いている あねさと です。
あれは……。あれほどまでとは思わなかった……。
ということで今回は、書くかどうか、載せるかどうか迷ったけれど、「宇宙戦艦ヤマト2199」についての批評と感想…………もとい、悪口&罵詈雑言です。
※以下の文章(長文)には感情を害するような表現が含まれています。
※今回の記事掲載に併せて以前の記事についてタイトルを変更/統一しました。
というわけで、悪い意味での衝撃的な最終回で幕を下ろした「宇宙戦艦ヤマト2199」。たしかにね、後半はオリジナルの展開だと聞いていたし、これまでのオリジナルエピソードの不出来具合からして一抹の不安が過ぎっていたんだけれど、あそこまでひどいとは……。
以前の記事で、真田さんのエピソードまで話したので、以降についてざっくり。
ガミラス側でクーデター騒ぎがあったものの、デスラーまさかの復活(実は影武者を立てていた)で、あっさり鎮圧。事態収束に一役買ったゲール(演じるのは広瀬正志氏)ですが、この際、“「寄生虫めがっ!」と言われた直後に撃った”という演出が入ってたら、個人的には拍手ものだったんですが、まあそれはないか(←やっちゃいけないよね;笑)。
※「太陽の牙ダグラム」最終回で、広瀬さん演じるデスタンがラコック弁務官を射殺したシーンですね。
冗談はともかく、
ヤマトはガミラス側の亜空間ゲートを利用して、大マゼラン銀河に到達、そこで迎え撃つのは、クーデター騒動でいったんは逮捕されたものの、嫌疑が晴れ名誉挽回した智将ドメル。あの名場面の再現がされるわけです。ここに至るまでの流れは、総監督の思い入れたっぷりでやや過剰とも思える部分もありますが、まあ、いいでしょう。武人と武人のガチンコバトルが、映画「バルジ大作戦」のオマージュとともに繰り広げられるわけです。
ですがね、
手に汗握ったのは事実。森雪をイスカンダルの姫君:ユリーシャと勘違いして誘拐する話は蛇足と思うが(クライマックスに繋がるということで削れないのだが、それが結局この物語の欠陥になった。後述します)、優勢に事を進める七色艦隊相手に孤軍奮闘するヤマト(&艦載機)にハラハラ&ドキドキだったのは間違いない。
だけどね、
イオン乱流に追い込まれ形勢逆転、友軍を失い、単独でヤマトと対峙せざるを得なくなったドメルには後がないようには見えない。それでも旧作通り特攻をせざるを得ないのはストーリーの都合上(&旧作ファンの都合上)変わらず、艦艇に取り付いて自爆するのだが……、
ええっ! 犬死じゃん!
“波動防壁”という魔法でヤマトは傷一つつかず、ドメルあっけなく死亡。
……開いた口がふさがらなかったのは言うまでもない。
いや、戦争というものはたくさんの犬死が積み重なる愚行なのだよ-----という主張とも取れなくもないが、いやならもっとドラマの組み立てを考え直す必要があるだろう。もちろん上述のことを考えてこのエピソードを制作したわけではあるまい。
単純に旧作での吹っ飛び方では、その後の航海に無理があるだろうという判断だからだろうが、おかげで以降の話(とテーマ)に無理が生じてしまったのでは意味がないのではないか。
まあ、ドメルの話はいい。まだ枝葉の部分だ。(ヤマトで一番面白い場面だけれどね)。
問題はこの話以降、津波のように押し寄せる。
ドメル艦隊を打ち破ったあと、補給のためにとある惑星に立ち寄るのだが、そこはガミラスの政治犯/反逆者収容所。そこでの反乱に巻き込まれ、なんやかんやでガミラスの反乱部隊と会談。共闘とはならなかったものの、ヤマトの任務について一定の理解を得ることができ、一路イスカンダルへ。
どさくさで反乱軍にまぎれこんだ藪君を残して(笑)。
で、ご存知の通り、イスカンダルはガミラス本星の隣にあり(二連星だからね)、否が応でもガミラスの目の前を横切ることになる。これをデスラーが見逃すはずもなく、ワープアウト直後に赤いビームがヤマトを襲う! それは……。
ガンド・ロワ(映画「The IDEON」の最終エネルギー兵器)かよ!
いや、デスラー砲なんですが、その演出がまるでイデオン(苦笑)。
それだけにとどまらない。その後もガミラス本星へ突入せざるを得ない状況で、首都バレラスの総統府にビルに突っ込み、さあ白兵戦だ! ………ところが、デスラーはその前に総統府を後にしていて、上空の軌道都市要塞に到着するや否や、その構造物の一部を投下。バレラスとともにヤマトを葬り去るという作戦。
えっ!? 逆シャア(映画「起動戦士ガンダム 逆襲のシャア」)かよ!
ここで、脱力MAX。そして、以降「ヤマトよ永遠に」他様々の新旧のアニメ作品の引用のオンパレード。
ガミラス本星で闘いが終わり、デスラーだけが消え、ヤマトもガミラスも無事でよかったねと言う 軟弱もの 博愛主義者が喜びそうな展開でイスカンダルへ。
ところが、イスカンダルの女王:スターシャはヤマトを歓迎はするものの、波動コアを兵器に転用したと難癖をつけて、コスモリバースシステムの引渡しを渋る。
最終的には引き渡すのだが、その理由、心変わりが、前説の高尚な(?)講釈と一致しない(苦笑)。無意味なサービス(水着回;爆)はともかく、言行がバラバラ且つその理由付けが浅い。旧作の神々さとその裏に秘められた女の情熱というものがここにはないためか、嫌味な女にしか受け取れないのだ。
結局コスモリバースシステムはヤマトに引き渡されるのだが、その条件は波動砲の封印(ヤマトそのものがコスモリバースシステムになる)。そしてその発動は地球の記憶-------古代守の意識が必要なのだと。
守兄さん、既にこの世を去ってました。
それは、納得はいかないが(いま思い出してもスターシャと古代守の絡みは、鳥肌が立つ名シーン!)、仕方ないと割り切るにしても(スターシャが身ごもっていること示唆するシーンはあるが)、このために以降の話がまたまた……。
コスモリバースシステムを持ち帰り、地球への帰還の途につくヤマト。そこをお約束どおりデスラーが襲撃するのだが、これまでのエピソードで古代が濃密にかかれていなかったことによる弊害がここでも噴出。デスラーとの対峙も森雪を巡っての争いにしかなっていないし、森雪が死線を彷徨う原因も、古代をかばうのではなく、デスラーとの接触直前に救助したセレステラ(デスラーに心酔していた彼女は、デスラー失脚後、自身の居場所を失い、宇宙を彷徨っていたところをヤマトに救助さる。そしてデスラーの突入劇でデスラー彼のもとに駆けつけるものの、彼に誤って撃たれた)が侍女達に撃たれるその時に、彼女をかばったことだった。
はぁ……。
デスラーは結局志を果たせず退却、艦に戻り、デスラー砲の引き金を引いたことによる暴発で宇宙の(亜空間の)藻屑となるのだが、ああ、ヤマト、何もしてないよね(爆)。
全てデスラーの意味不明な一人芝居で闘いの幕が閉じたのでした。
そして……、地球を目前にしたヤマトの内部では、幽霊騒ぎがまたも勃発。その幽霊とは古代守。古代守はコスモリバースシステム(=ヤマト)の核となって、地球再生を担うのだ-------。
「トチロー」かよ!(爆)
ヤマトに曰くがつく、松本大先生(笑)をもってくるのかい……。
その守兄さんは、地球はそっちのけで弟の彼女を甦らせ、直後に息を引き取った沖田艦長の魂がコスモリバースシステムに宿り、地球は無事再生されましたとさ…………。
(終始無言)
私ね、最終話、テロップが出たところで、テレビの電源切りましたよ。なんだよこれは!
ストーリーがある程度変わるのは仕方がない。オリジナルエピソード追加も構わない。だが話の核を変えるのは問題があるんじゃないのか?
それはちょっと置いておいて、まず一つ目の問題提起。
「宇宙戦艦ヤマト2199」は、旧作の実にいい加減な科学考証&メカ設定、ご都合主義を解消すべく、綿密な設定に裏付けられた緻密なストーリーとして制作されたアニメ作品だったはずだった。だが話が展開するにつれ、辻褄あわせに破綻を喫したのか、オカルトでオチをつけるという禁じ手に臥してしまった。これって、結局は“ご都合主義”と変わらないんじゃないか!? 格好いい能書きで啖呵をきった割には、出してきたものが“すすんだ科学は魔法と変わらない”とばかり、幽霊でカタをつけるのでは、リアルなハードSFの名が泣くだろう。
さらに問題なのは、最終エピソードのほとんどが他作品の流用で占められていることだ。いや、枝葉部分でのオマージュ的演出ということなら私も文句は言わない。前述の「バルジ大作戦」のパンツァーリートの真似などは、「やっぱりやったか(笑)」、「あんたも好きだねぇ(笑)」と笑って済ませられる。本筋に影響するものではないからね。
だが、ガミラス本星での戦闘の際の、人口衛星の首府への落下攻撃はそれとは異なる。旧作でも人口太陽をヤマトにぶつける話はあるが、今回とは趣も演出も異なる。という以上にやっていることが「逆襲のシャア」そのものであり、誰が見ても、異口同音そう指摘するだろう。さらには最終話の“トチロー”である。もうどこが“ヤマト”なんだと言いたい。これが“ヤマト”ではない、別の新作品なら、“ああ、パクったのね”と(軽蔑の意味を込めて)苦笑で済ませられるのだが、仮にも“ヤマト”である。以降の数々のアニメ作品に影響を与えた金字塔的作品である。そのリメイクが、後輩となる作品の真似事で幕引きをしたのでは、旧作に及ばずと指摘されても仕方ないんじゃないか?
だがそれ以上に問題なのは、この作品がドラマの体を成していないことにある。
この作品、いったい何をテーマとして、観た人に何を伝えることを意図していたのだろうか??
旧作同様、人類愛? 異民族/異文化でも人は分かり合える?
確かにそうかもしれないが、それはキャッハウフフの女子会から導き出された森雪の(薄っぺらい)言葉にしか聞こえない。少なくとも本作では、私にはそうとしか感じられない。
一方旧作は、絶滅しあうまでの殺し合いから、ふと我に返った古代が、取り返しのつかない罪を自覚した際に発せられた言葉だった。それは今作同様唐突だったかもしれないが、演出のうまさからなのか、実に重みを感じさせられた。なぜなら、“愚行を繰り返さない”とは、愚行を自覚することから始まるからだ。いや、愚行したからこそわかることであり、それ故に発せられる言葉だからだ。
実をいうと、歴史的なことからも、現在の“戦争を外交解決の手段としない”大義も、最初の絶滅戦争となった第一次世界大戦の教訓から導き出されたものなのだ。一日の会戦で何万もの人間が屍となる戦い-------その戦いはとある地域の若者のほとんどを死に至らしめたほどのものだった。(当時は郷土連隊制だったため、一つの連隊の全滅は、徴兵地域の全滅に等しかった)。
そういった、作品のテーマを表現するために本来積み重ねられるべき描写が、その積み重ねがまるで希薄なのだ。だから、最終話の沖田の死も、何の重みも感動も伝わってこない。勝手に死んだだけだ。旧作のような新しい世代への継承という描写が皆無だから、古代と沖田の間には任務上の上下関係以外には断絶しかなく、沖田の死はクルーに何の衝撃も与えない。
本作でのヤマトの帰還後、戦士の丘に立つことになるであろう沖田の彫像に、クルー達は旧作の続編のような心のよりどころを見出せるだろうか?
要するに、ドラマを作る上での基本が全くできていないのだ。そもそも、総監督や脚本家は、各キャラクターの設定というパラメータに拠って演繹されるシミュレーションをドラマだと勘違いしているのではないか?
それがドラマだというのなら、テレビも映画も要らない。窓の外を見ていればいいだろう。
もちろん、「宇宙戦艦ヤマト2199」が一定の成果をあげたことは否定しない。旧作をファンを一応は喜ばせたし、新規のファンの獲得もできたろう。メカのディテールは圧巻だし、キットプラモデルも売れるだろう(笑)。興行的にも大成功だ。
だが、次に公開されるという完全新作にどれだけ客が入るかな?
少なくとも私は見ない。ヤマトは続編/新作がつくられるたびに評判を落とすという曰くのつくコンテンツなのだが、残念ながら今作もその例に漏れなかったということか。
いや、これならば庵野監督が言った「絵だけ新しくして筋はそのまま」の方がずっと良かった。総監督のガミラスへの愛は確かに伝わった。しかしそれは観客にドラマを通して伝えることではない。それならば、ヤマトを誘導剤にして、“宇宙の一匹狼ガルマンウルフ”とでも称して、フラーケンのドラマをつくるべきだった。いやそれが本音か?
実際、今回のヤマト2199、私の中で印象に残った人物は、下記の四人ぐらいしかいない。
・森雪(実質的地球側主人公&お色気担当)
・ドメル
・フラーケン
・藪助治(笑)
※旧作ではイスカンダルの海の藻屑となりましたが、近作はヤマト脱走後フラーケンに拾われ、新たなる居場所を手に入れられて良かったね! しかもヤマトに乗り組んでいるときよりも表情が生き生きしている!(爆)。
いずれにしても、最終的に、私はこのヤマトに高評価を与えられない。作劇に設計の骨に重大な瑕疵がある。それに中盤まで(予感はしていたが)気がつかなかったという意味では、見事に騙されたとも言える。無論、後味は悪い。
しかし……、これがいまの日本のアニメ作家達の能力なのか? 錚々たるメンバーが集まり出来上がった作品もこの程度なのか?
「宇宙戦艦ヤマト2199」を見終わって、一番衝撃だったことはそれだった。
P.S.
だが、いい“反面教師”でもあった。あんな風なドラマをつくってはいけない。そういう意味で自作を見返すと、ああ、もっと人物描写を描き加えなくてはいけないな、と感じた、自己を見つめなおす半年でもあったかな。
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