ピアフ、モンタン、そしてダリダ
先日の、幼少時に聴いた音楽を探す旅(ネット検索)の最中、様々な音楽に触れたわけですが、中でも数多くのシャンソン-----フランス歌謡を耳にすることが出来ました。
個人的には、シャンソンというジャンルはあまり好きではないのですが、フランス歌曲が調査対象になっていたことに加え、その検索対象にとしてダリダが歌った曲も含まれていたことから、いつものように(教養を深める意味で)脱線してみました。
ここで一つお断りしておかなければならないのですが、フランス語で“シャンソン(chanson)”とは“歌”を意味する言葉であり、世界中の歌はあまねく“chanson”なのですが、ここではフランスの伝統的な大衆歌謡を指して使っています。とはいえそのシャンソンも、時代の流れにより変化していっているということも事実ではあります。
そんなシャンソンの、誰もが知っている名歌手、誰もがその名を耳にしたことのある歌手と言えば、エディット・ピアフ(Edith Piaf)をおいて他にないでしょう。
まずは彼女の代表曲(ピアフ自身が作詞)、二曲をどうぞ
ばら色の人生(La Vie en Rose)
愛の賛歌(L'Hymne a l'amour)
世界中の人々に愛され、数多くのアーティストによってカバーされた名曲でもあります。
ピアフの、その47年の生涯は決して順調万帆ではなく、第二次世界大戦をはじめとして様々な苦難が成功の影に付き纏っていました。
先にあげた彼女の代表曲二曲も、単なる幸福を謳ったものではなく、むしろ過ぎ去りし時の思い出に裏打ちされた哀しみ、報われることのなかった、愛する人への想いを綴った歌でした。であるが故に多くの人々の心に響いたのでしょう。そしてそれが波乱万丈に生きたピアフの歌声であればこそ。
一方で、ピアフは多くの知識人と親交を結び、そしてたくさんのアーティスト達を発掘し、世に送り出してきました。
その一人が、イブ・モンタン。彼もまたフランスの国民的歌手の一人であり、そして数多くの映画に出演した、フランスを代表する俳優でもありました。
そんなモンタンは、実はイタリア移民。
1921年生まれの彼は、二歳のときに両親に連れられ、当時ファシスト政権下にあったイタリアからフランスへ移住。歌手となるまでに様々な職を経た苦労人でもありました。
やがてピアフに見出された彼は、彼女から歌手として成功するために必要な教育を受けることになります。ピアフとモンタンは一時期愛人関係にあったと言われてますが、同時に師弟関係でもあったわけです。
そんなモンタンの代表作と言えば、やはり「枯葉(Les Feuilles Mortes)」でしょう。
ハンガリー出身のジョセフ・コズマ(Joseph Kosma)が作曲し、フランスの詩人:ジャック・プレヴェール(Jacques Prevert)により詞が付けられた本作は、フランスの偉大な映画監督であるマルセル・カルネ()の「夜の門」の挿入歌として、モンタンによって歌われたのですが、驚くことに、当時はさほどヒットしなかったそうです。
しかしその後、モンタンと同世代のジュリエット・グレコ(Juliette Greco)が取り上げたところ、瞬く間にヒット。「枯葉」は世界中に認知され、オリジナル歌手であるモンタンも脚光を浴びることになったのです。
「枯葉」は単に有名なシャンソンと言うだけではなく、様々なジャンルの音楽の素材としても支持され、特に数多くのジャズメンがこの曲を取り上げました。偉大なるジャズ・ピアニストとして知られるビル・エヴァンス(Bill Evans)もまたその一人で、1959年のアルバム「ポートレイト・イン・ジャズ(Portrait in Jazz)」に収録された録音は、モード・ジャズを代表する名演として知られているばかりか、後世のジャズメンにも多大なる影響を与えました。
さらに時代が下ると、こんなアレンジも。
ダリダによる、1976年のヒットバージョン
ところで、先ほど“モンタンと言えば「枯葉」”と書きましたが、実は個人的には「枯葉」ではなく「自転車乗り(La Bicyclette)」を押したいんです。と言うのも、私がはじめて聴いたモンタンの歌だから(爆)。
この曲は、ピエール・バルー(Pierre Barouh)の作詞、フランシス・レイ(Francis Lai)の作曲という、映画「男と女」コンビの1968年の作。自転車に乗る少年の心情が細やかに描かれた詞にリズミカルな曲調がつけられた愛すべき曲でもあります。
1980年にオランピア劇場にて収録された当時の映像が残っているのですが、円熟の境地にあるモンタンの歌声を聴くと、フランス語がわからなくてもその情景が目に浮かぶようです。
さて、先ほどの「枯葉」で最後にご紹介したバージョン、これを歌ったのが、今日の本題かつヒロインのダリダ(Dalida)。彼女もまた多くのフランス国民に愛された、現代フランスを代表する歌手の一人であり、シャンソンの世界に新風を巻き起こした歌姫でもありました。
詳しい経歴は他サイトに譲りますが、1933年にイタリア移民の子としてエジプトで生を受けた彼女は、同地の美人コンテストをきっかけに芸能界に足を踏み入れ、更なるキャリアアップを目指してフランスへ渡り、いつしか歌を歌い始めることになります。
バンビーノ(Bambino)
歌手として活動をはじめたダリダは、シャンソンにとどまることなく、ディスコサウンドを始めとした様々なジャンルの音楽を融合させ、新しいシャンソンを、そしてステージを意欲的に送り出していきます。
雨の降る日(Le jour ou la pluie viendra)
あまい囁き パローレ パローレ(Paroles Paroles)
待ちましょう(J'Attendrai)
18歳の彼(Il venait d'avoir 18 ans)
月曜日、火曜日(Monday, Tuesday)
Je Suis Toutes Les Femmes
ラストクリスマス(Reviens moi)
※ワム!(Wham!)のヒット曲「ラストクリスマス(Last Christmas)」の仏語カバーです。
どこまでもフラットで伸びやかなアルトの声、豊かな声量とそれ資とする表現力、そして華やかな美貌------フランス人のみならず、世界各国の人々の心を鷲掴みした彼女の歌手人生は、一見順調そのものに見えます。
しかしその名声とは裏腹に、彼女の私生活は最期まで悲しみに包まれていました。度重なる悲恋。そして愛する人を相次いで失っていくなかで、彼女の心はその苦しみに耐えられなくなってしまいます。
1987年5月、新聞に記事が載ります。ダリダ逝去。彼女は自らの手で54年の人生の幕を引いたのでした。
世界中から愛されたフランスの歌手:ダリダ。彼女の棺を担ごうと、たくさんの人が路上に溢れた映像が残されています。
そして没後20年を過ぎてなお人々の心の中に生き続けるダリダには、公式オフィシャルサイトまで設置されています。(21ヶ国語に対応し、その中には日本語もあります!)
http://dalida.com/ja/
※アクセスすると音が出ます。ご注意ください。
ピアフ、モンタン、グレコに並ぶ偉大なる歌手:ダリダについて、稚拙な文章でこれ以上語ることは無意味でしょう。彼女の大きさは、彼女が残した膨大なディスコグラフィーが物語っていますから。
ということでこの記事を、彼女の最晩年の曲で締め括りたいと思います。
Parce que je ne t'aime plus
個人的には、シャンソンというジャンルはあまり好きではないのですが、フランス歌曲が調査対象になっていたことに加え、その検索対象にとしてダリダが歌った曲も含まれていたことから、いつものように(教養を深める意味で)脱線してみました。
ここで一つお断りしておかなければならないのですが、フランス語で“シャンソン(chanson)”とは“歌”を意味する言葉であり、世界中の歌はあまねく“chanson”なのですが、ここではフランスの伝統的な大衆歌謡を指して使っています。とはいえそのシャンソンも、時代の流れにより変化していっているということも事実ではあります。
そんなシャンソンの、誰もが知っている名歌手、誰もがその名を耳にしたことのある歌手と言えば、エディット・ピアフ(Edith Piaf)をおいて他にないでしょう。
まずは彼女の代表曲(ピアフ自身が作詞)、二曲をどうぞ
ばら色の人生(La Vie en Rose)
愛の賛歌(L'Hymne a l'amour)
世界中の人々に愛され、数多くのアーティストによってカバーされた名曲でもあります。
ピアフの、その47年の生涯は決して順調万帆ではなく、第二次世界大戦をはじめとして様々な苦難が成功の影に付き纏っていました。
先にあげた彼女の代表曲二曲も、単なる幸福を謳ったものではなく、むしろ過ぎ去りし時の思い出に裏打ちされた哀しみ、報われることのなかった、愛する人への想いを綴った歌でした。であるが故に多くの人々の心に響いたのでしょう。そしてそれが波乱万丈に生きたピアフの歌声であればこそ。
一方で、ピアフは多くの知識人と親交を結び、そしてたくさんのアーティスト達を発掘し、世に送り出してきました。
その一人が、イブ・モンタン。彼もまたフランスの国民的歌手の一人であり、そして数多くの映画に出演した、フランスを代表する俳優でもありました。
そんなモンタンは、実はイタリア移民。
1921年生まれの彼は、二歳のときに両親に連れられ、当時ファシスト政権下にあったイタリアからフランスへ移住。歌手となるまでに様々な職を経た苦労人でもありました。
やがてピアフに見出された彼は、彼女から歌手として成功するために必要な教育を受けることになります。ピアフとモンタンは一時期愛人関係にあったと言われてますが、同時に師弟関係でもあったわけです。
そんなモンタンの代表作と言えば、やはり「枯葉(Les Feuilles Mortes)」でしょう。
ハンガリー出身のジョセフ・コズマ(Joseph Kosma)が作曲し、フランスの詩人:ジャック・プレヴェール(Jacques Prevert)により詞が付けられた本作は、フランスの偉大な映画監督であるマルセル・カルネ()の「夜の門」の挿入歌として、モンタンによって歌われたのですが、驚くことに、当時はさほどヒットしなかったそうです。
しかしその後、モンタンと同世代のジュリエット・グレコ(Juliette Greco)が取り上げたところ、瞬く間にヒット。「枯葉」は世界中に認知され、オリジナル歌手であるモンタンも脚光を浴びることになったのです。
「枯葉」は単に有名なシャンソンと言うだけではなく、様々なジャンルの音楽の素材としても支持され、特に数多くのジャズメンがこの曲を取り上げました。偉大なるジャズ・ピアニストとして知られるビル・エヴァンス(Bill Evans)もまたその一人で、1959年のアルバム「ポートレイト・イン・ジャズ(Portrait in Jazz)」に収録された録音は、モード・ジャズを代表する名演として知られているばかりか、後世のジャズメンにも多大なる影響を与えました。
さらに時代が下ると、こんなアレンジも。
ダリダによる、1976年のヒットバージョン
ところで、先ほど“モンタンと言えば「枯葉」”と書きましたが、実は個人的には「枯葉」ではなく「自転車乗り(La Bicyclette)」を押したいんです。と言うのも、私がはじめて聴いたモンタンの歌だから(爆)。
この曲は、ピエール・バルー(Pierre Barouh)の作詞、フランシス・レイ(Francis Lai)の作曲という、映画「男と女」コンビの1968年の作。自転車に乗る少年の心情が細やかに描かれた詞にリズミカルな曲調がつけられた愛すべき曲でもあります。
1980年にオランピア劇場にて収録された当時の映像が残っているのですが、円熟の境地にあるモンタンの歌声を聴くと、フランス語がわからなくてもその情景が目に浮かぶようです。
さて、先ほどの「枯葉」で最後にご紹介したバージョン、これを歌ったのが、今日の本題かつヒロインのダリダ(Dalida)。彼女もまた多くのフランス国民に愛された、現代フランスを代表する歌手の一人であり、シャンソンの世界に新風を巻き起こした歌姫でもありました。
詳しい経歴は他サイトに譲りますが、1933年にイタリア移民の子としてエジプトで生を受けた彼女は、同地の美人コンテストをきっかけに芸能界に足を踏み入れ、更なるキャリアアップを目指してフランスへ渡り、いつしか歌を歌い始めることになります。
バンビーノ(Bambino)
歌手として活動をはじめたダリダは、シャンソンにとどまることなく、ディスコサウンドを始めとした様々なジャンルの音楽を融合させ、新しいシャンソンを、そしてステージを意欲的に送り出していきます。
雨の降る日(Le jour ou la pluie viendra)
あまい囁き パローレ パローレ(Paroles Paroles)
待ちましょう(J'Attendrai)
18歳の彼(Il venait d'avoir 18 ans)
月曜日、火曜日(Monday, Tuesday)
Je Suis Toutes Les Femmes
ラストクリスマス(Reviens moi)
※ワム!(Wham!)のヒット曲「ラストクリスマス(Last Christmas)」の仏語カバーです。
どこまでもフラットで伸びやかなアルトの声、豊かな声量とそれ資とする表現力、そして華やかな美貌------フランス人のみならず、世界各国の人々の心を鷲掴みした彼女の歌手人生は、一見順調そのものに見えます。
しかしその名声とは裏腹に、彼女の私生活は最期まで悲しみに包まれていました。度重なる悲恋。そして愛する人を相次いで失っていくなかで、彼女の心はその苦しみに耐えられなくなってしまいます。
1987年5月、新聞に記事が載ります。ダリダ逝去。彼女は自らの手で54年の人生の幕を引いたのでした。
世界中から愛されたフランスの歌手:ダリダ。彼女の棺を担ごうと、たくさんの人が路上に溢れた映像が残されています。
そして没後20年を過ぎてなお人々の心の中に生き続けるダリダには、公式オフィシャルサイトまで設置されています。(21ヶ国語に対応し、その中には日本語もあります!)
http://dalida.com/ja/
※アクセスすると音が出ます。ご注意ください。
ピアフ、モンタン、グレコに並ぶ偉大なる歌手:ダリダについて、稚拙な文章でこれ以上語ることは無意味でしょう。彼女の大きさは、彼女が残した膨大なディスコグラフィーが物語っていますから。
ということでこの記事を、彼女の最晩年の曲で締め括りたいと思います。
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