グンゼ産業「ランボルギーニ・イオタSVR」
みなさん、「ランボルギーニ・イオタ」という車を御存知でしょうか?

本日は、この車にまつわるお話、そしてプラモデルをご紹介します。
いまや、フェラーリと並ぶイタリアン・エキゾチックカーのブランドとなったランボルギーニ。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、トラクターの製造・販売で財を成したフェルッチオ・ランボルギーニが手掛けた事業の一つが自動車製造。これからお話しするアウトモビリ・ランボルギーニ(Automobili Lamborghini)です。
創業者:フェルッチオ・ランボルギーニ(Ferruccio Lamborghini)が自動車会社を立ち上げたいきさつは諸説ありますが、(例えば、当時乗っていたフェラーリの改善点を提案したものの、件もほろろに断られたことに腹を立てた、など)、Car Magazine No.280に掲載された、ランボルギーニ初期の開発総責任者も務めたパオロ・スタンツァーニ(Paolo Stanzani)へのインタビューによると、フェルッチオのフェラーリ用に取り寄せたクラッチが、自社のトラクター用で使用しているクラッチと同じものでありながら、5倍の価格だった-----そのことにヒントを得て、自動車事業を手掛けることを決意したそうです。
そんな彼のもとには、若くて優秀なエンジニア達が数多く集まりました。後にフォーミュラ/レーシングシャシーの製造会社を興すジャン・パオロ・ダラーラ(Gian Paolo Dallara)、ランボルギーニを文字通り支えることになる名車:カウンタックをつくりあげたパオロ・スタンツァーニ、そして今回のお話の中心人物となるニュージーランド出身のテストドライバー:ボブ・ウォレス(Bob Wallace)、etc…。

そのボブ・ウォレス、フェラーリやマセラティを走らせていたレーシングチームでキャリアを積んだ後に、立ち上がったばかりのランボルギーニに参加することになりました。ちょうど時代は60年代。若者達が未来をつくりあげた時代であり、ランボルギーニの自動車もまた、そんな若者達の作品だったのかもしれません。
そんな彼らが生み出し、ランボルギーニの名前を一躍有名にした自動車が、ランボルギーニ・ミウラでした。当時ベルトーネに在籍していたマルチェロ・ガンディーニによる、FR車を思わせるような流麗なフォルムを纏ったその車は、巨大なV12エンジンを座席背後に置きながら、居住性を犠牲にすることなく、ミッドシップ車に恥じない性能を実現するという、まさに革命的な自動車でした。
一方でこの車は様々な欠点も抱えていました。ボディ剛性は高かったものの、後輪とエンジン搭載位置の間隔が狭く、エンジンも大型だったこともあって、常にリアヘビーな状態が付き纏いました。またエンジンを横置きにしたため、リアサスペンションの設計自由度が阻害され、リアヘビーだったこの車を受け止めるには力不足でした。
ランボルギーニ・ミウラは、ある意味“未完成”だったのです。
そんな“ミウラ”をより完全な車に仕立てるプロジェクトとして生まれたのが、ランボルギーニ・イオタだった------のかというと、そう話は簡単ではありません。

ある朝、濃霧に覆われた一般道を走っていたボブ・ウォレスは、アスファルト敷設工事現場に突っ込んでしまい、タール運搬車に激突、乗っていたミウラは大破し、ウォレス自身も怪我を負って入院する羽目になってしまいます。意図せず不自由な生活を送ることとなったウォレスは、そこであることを思いつくのです------タールにどっぷり浸かり壊れてしまったミウラをそのまま捨ててしまうなら、いっそのことそいつをもとに自分好みに仕立て直してみようじゃないか-----と。
ウォレスは早速、ダラーラの後を継いで総責任者となっていたスタンツァーニにプロジェクトの承認を求めますが、スタンツァーニはこれを高く評価し、あくまでも私的プロジェクトととして自身も協力することを申し出ます。
こうしてウォレスとスタンツァーニによる、ミウラ改造計画が始まったのです。それもF.I.A.スポーツ・レギュレーション附則条項“アペンディックスJ”に基づいたレーシング仕様車として。
これが幻のスーパーカー:ランボルギーニ・イオタの正体でした。

ウォレスはスタンツァーニとともに、様々なモディファイを施していきます。まずはシャシーの軽量化、そして強化。特にサスペンション廻りは取り付け部をレース用のピロー・ボールに変更し、ショックア・ブソーバそのものもKONI製の減衰力可変型に換装。ホイールもマグネシウム合金製とし、レーシングタイヤを履かせました。
ボディも軽量化の対象となり、可能な限りアルミニウム合金に置き換えられました。ミウラで特徴的だったポップアップ式ヘッドライトも埋め込み式に改められ、ノーズには空力改善のためのスポイラーが装着されました。
パワートレインもチューニングの対象となり、圧縮比を高め、カムを高速型に変更、配管にも手を加え、実に440馬力をたたき出すエンジンに仕立て上げたのです。

こうして出来上がったオリジナルのイオタは、様々なテストに駆り出される事になります。そこで集積されたデータは、ベースとなった市販車:ミウラの改良に役立てられることになります。
しかしながら、イオタ、そしてウォレスが目指したレースへの参加は残念ながらフェルッチオによって却下され、ランボルギーニ社におけるイオタの役目は終わることとなります。この車は一連のテスト業務を終えた後、イタリア貴族の経営するディーラーを通じて売却されてしまうのです。そしてそこで事故に遭い、イオタはこの世から永遠に消えてしまうのでした------。
ところが、この“イオタ”のうわさを聞きつけた顧客達が“イオタ”を求めてランボルギーニ社に問い合わせてきたのです。こうして生まれたのが、オリジナルと同じくミウラをベースとした、7台の公式“イオタ・クローン”でした。しかしその“クローン・イオタ”はオリジナルの“イオタ”とは似て異なるものでもありました。
フェラーリもそうですが、ランボルギーニも顧客の細かな注文に合わせた車を造る、オートクチュールな自動車メーカーです。7台の“クローン・イオタ”は、7台とも細かな仕様/外観が異なるのです。
その他にも、多くの顧客から“イオタ仕様”を盛り込んだ“スペシャル・ミウラ”のオーダーがあったとされています。その中で最も有名な車体が“イオタSVR”。多くの人が“ランボルギーニ・イオタ”として記憶している車がそれであり、本日紹介するプラモデルの基になった車両です。
この“イオタSVR”はグンゼ産業(現:GSIクレオス)が発売したプラモデル。組み立てたのは私が小学校の頃ですから、うん、最近のことですね(<違う;爆)。
なにぶん小学生の頃の作品だけあって、工作能力が低く、とても人様にお見せできるような出来栄えではないのですが、今回は恥をしのんでの公開です。

もう少し詳しく見ていきましょう。
正面

左側面

背面

右側面

正面から上部

同じく背後から上部

このモデルには本来、ルーバー上部にスポイラーが着いていたんですが、ご覧の通り破損しています。
左側面から上部

右側面から上部


このモデルはドアこそ開きませんが、前方及び後方のカウルを開ける事が出来ます。


実車では、前方にはラジエータとバッテリ、燃料タンクとスペアタイヤが納められていましたが、このモデルでは電池ボックスとなっているため、簡単なモールドでのみの表現となっています。

後方はもちろんエンジン。横置きされたV12エンジンの内部にはモーターを内蔵することが出来ました。

迫力満点のランボルギーニV12エンジン。

ただ、ミウラから改造された車であるが故、オリジナルのイオタのそれとは、配管周りやシャシーフレームが随分と異なっています。
特徴的なマフラーとサスペンション。

狭い空間に押し込まれている様子が伺えます。

この写真からは見づらいですが、コックピットはオリジナル・イオタのそれとは異なり、ミウラのものとほぼ同じ形状になっています。というもの、このプラモデルの基になった“イオタSVR”が、もともと市販のミウラをベースにつくられたからでしょう。

実は前述したオリジナル・イオタの話、近年になってようやく明かされたことであり、このプラモデルが発売された時期は、当事者しか知らない事実でした。即ち、ランボルギーニ・イオタという車は、噂だけが一人歩きする“謎の車”だったのです。

しかし、そんな謎めいた車だったからこそ、当時の子供達の心を鷲掴みにしたのかもしれません。スーパーカーブームが巻き起こった70年代後半、当時の子供達は次々と現れるエキゾチックな車に胸を躍らせるのですが、“イオタ”だけは孤高の存在でした。同じランボルギーニ製のカウンタックやフェラーリ、マセラティに夢中になりながらも、何故か“イオタ”にだけは、誰もが敬意を表していました。この車が持っていたミステリアスな魅力が、
写真を通じて、プラモデルを通じて、子供達の心に強く突き刺さっていたのかもしれません。

この時代、多くのスーパーカーが、たくさんのメーカーからプラモデルとして発売されました。ランボルギーニ・イオタもまた、他のスーパーカー同様、各社から数多くプラモデルが発売されました。今回御紹介したグンゼ産業の製品もその中の一つですが、モーター走行、ライト点灯というギミックを備えながらも、実写を出来る限り再現しようとした素晴らしいキットではないかと思います。




既に絶版となり、現在は入手不可能ですが、久しぶりにこのモデルを手に取り、埃を払い、窓に青く塗られた油性サインペンの筆跡を落としたその時、子供の頃の思い出、そして憧れが蘇ってきました。ハンドルを握り、彼方まで延びる道をどこまでもどこまでも走っていきたい-----。

いつか機会があったら、ランボルギーニ・イオタのプラモデルをもう一度つくってみたいですね。今度はしっかりと。
参考文献:株式会社ネコ・パブリッシング刊「Car Magazine」No.279,280,310,324

本日は、この車にまつわるお話、そしてプラモデルをご紹介します。
いまや、フェラーリと並ぶイタリアン・エキゾチックカーのブランドとなったランボルギーニ。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、トラクターの製造・販売で財を成したフェルッチオ・ランボルギーニが手掛けた事業の一つが自動車製造。これからお話しするアウトモビリ・ランボルギーニ(Automobili Lamborghini)です。
創業者:フェルッチオ・ランボルギーニ(Ferruccio Lamborghini)が自動車会社を立ち上げたいきさつは諸説ありますが、(例えば、当時乗っていたフェラーリの改善点を提案したものの、件もほろろに断られたことに腹を立てた、など)、Car Magazine No.280に掲載された、ランボルギーニ初期の開発総責任者も務めたパオロ・スタンツァーニ(Paolo Stanzani)へのインタビューによると、フェルッチオのフェラーリ用に取り寄せたクラッチが、自社のトラクター用で使用しているクラッチと同じものでありながら、5倍の価格だった-----そのことにヒントを得て、自動車事業を手掛けることを決意したそうです。
そんな彼のもとには、若くて優秀なエンジニア達が数多く集まりました。後にフォーミュラ/レーシングシャシーの製造会社を興すジャン・パオロ・ダラーラ(Gian Paolo Dallara)、ランボルギーニを文字通り支えることになる名車:カウンタックをつくりあげたパオロ・スタンツァーニ、そして今回のお話の中心人物となるニュージーランド出身のテストドライバー:ボブ・ウォレス(Bob Wallace)、etc…。

そのボブ・ウォレス、フェラーリやマセラティを走らせていたレーシングチームでキャリアを積んだ後に、立ち上がったばかりのランボルギーニに参加することになりました。ちょうど時代は60年代。若者達が未来をつくりあげた時代であり、ランボルギーニの自動車もまた、そんな若者達の作品だったのかもしれません。
そんな彼らが生み出し、ランボルギーニの名前を一躍有名にした自動車が、ランボルギーニ・ミウラでした。当時ベルトーネに在籍していたマルチェロ・ガンディーニによる、FR車を思わせるような流麗なフォルムを纏ったその車は、巨大なV12エンジンを座席背後に置きながら、居住性を犠牲にすることなく、ミッドシップ車に恥じない性能を実現するという、まさに革命的な自動車でした。
一方でこの車は様々な欠点も抱えていました。ボディ剛性は高かったものの、後輪とエンジン搭載位置の間隔が狭く、エンジンも大型だったこともあって、常にリアヘビーな状態が付き纏いました。またエンジンを横置きにしたため、リアサスペンションの設計自由度が阻害され、リアヘビーだったこの車を受け止めるには力不足でした。
ランボルギーニ・ミウラは、ある意味“未完成”だったのです。
そんな“ミウラ”をより完全な車に仕立てるプロジェクトとして生まれたのが、ランボルギーニ・イオタだった------のかというと、そう話は簡単ではありません。

ある朝、濃霧に覆われた一般道を走っていたボブ・ウォレスは、アスファルト敷設工事現場に突っ込んでしまい、タール運搬車に激突、乗っていたミウラは大破し、ウォレス自身も怪我を負って入院する羽目になってしまいます。意図せず不自由な生活を送ることとなったウォレスは、そこであることを思いつくのです------タールにどっぷり浸かり壊れてしまったミウラをそのまま捨ててしまうなら、いっそのことそいつをもとに自分好みに仕立て直してみようじゃないか-----と。
ウォレスは早速、ダラーラの後を継いで総責任者となっていたスタンツァーニにプロジェクトの承認を求めますが、スタンツァーニはこれを高く評価し、あくまでも私的プロジェクトととして自身も協力することを申し出ます。
こうしてウォレスとスタンツァーニによる、ミウラ改造計画が始まったのです。それもF.I.A.スポーツ・レギュレーション附則条項“アペンディックスJ”に基づいたレーシング仕様車として。
これが幻のスーパーカー:ランボルギーニ・イオタの正体でした。

ウォレスはスタンツァーニとともに、様々なモディファイを施していきます。まずはシャシーの軽量化、そして強化。特にサスペンション廻りは取り付け部をレース用のピロー・ボールに変更し、ショックア・ブソーバそのものもKONI製の減衰力可変型に換装。ホイールもマグネシウム合金製とし、レーシングタイヤを履かせました。
ボディも軽量化の対象となり、可能な限りアルミニウム合金に置き換えられました。ミウラで特徴的だったポップアップ式ヘッドライトも埋め込み式に改められ、ノーズには空力改善のためのスポイラーが装着されました。
パワートレインもチューニングの対象となり、圧縮比を高め、カムを高速型に変更、配管にも手を加え、実に440馬力をたたき出すエンジンに仕立て上げたのです。

こうして出来上がったオリジナルのイオタは、様々なテストに駆り出される事になります。そこで集積されたデータは、ベースとなった市販車:ミウラの改良に役立てられることになります。
しかしながら、イオタ、そしてウォレスが目指したレースへの参加は残念ながらフェルッチオによって却下され、ランボルギーニ社におけるイオタの役目は終わることとなります。この車は一連のテスト業務を終えた後、イタリア貴族の経営するディーラーを通じて売却されてしまうのです。そしてそこで事故に遭い、イオタはこの世から永遠に消えてしまうのでした------。
ところが、この“イオタ”のうわさを聞きつけた顧客達が“イオタ”を求めてランボルギーニ社に問い合わせてきたのです。こうして生まれたのが、オリジナルと同じくミウラをベースとした、7台の公式“イオタ・クローン”でした。しかしその“クローン・イオタ”はオリジナルの“イオタ”とは似て異なるものでもありました。
フェラーリもそうですが、ランボルギーニも顧客の細かな注文に合わせた車を造る、オートクチュールな自動車メーカーです。7台の“クローン・イオタ”は、7台とも細かな仕様/外観が異なるのです。
その他にも、多くの顧客から“イオタ仕様”を盛り込んだ“スペシャル・ミウラ”のオーダーがあったとされています。その中で最も有名な車体が“イオタSVR”。多くの人が“ランボルギーニ・イオタ”として記憶している車がそれであり、本日紹介するプラモデルの基になった車両です。
この“イオタSVR”はグンゼ産業(現:GSIクレオス)が発売したプラモデル。組み立てたのは私が小学校の頃ですから、うん、最近のことですね(<違う;爆)。
なにぶん小学生の頃の作品だけあって、工作能力が低く、とても人様にお見せできるような出来栄えではないのですが、今回は恥をしのんでの公開です。

もう少し詳しく見ていきましょう。
正面

左側面

背面

右側面

正面から上部

同じく背後から上部

このモデルには本来、ルーバー上部にスポイラーが着いていたんですが、ご覧の通り破損しています。
左側面から上部

右側面から上部


このモデルはドアこそ開きませんが、前方及び後方のカウルを開ける事が出来ます。


実車では、前方にはラジエータとバッテリ、燃料タンクとスペアタイヤが納められていましたが、このモデルでは電池ボックスとなっているため、簡単なモールドでのみの表現となっています。

後方はもちろんエンジン。横置きされたV12エンジンの内部にはモーターを内蔵することが出来ました。

迫力満点のランボルギーニV12エンジン。

ただ、ミウラから改造された車であるが故、オリジナルのイオタのそれとは、配管周りやシャシーフレームが随分と異なっています。
特徴的なマフラーとサスペンション。

狭い空間に押し込まれている様子が伺えます。

この写真からは見づらいですが、コックピットはオリジナル・イオタのそれとは異なり、ミウラのものとほぼ同じ形状になっています。というもの、このプラモデルの基になった“イオタSVR”が、もともと市販のミウラをベースにつくられたからでしょう。

実は前述したオリジナル・イオタの話、近年になってようやく明かされたことであり、このプラモデルが発売された時期は、当事者しか知らない事実でした。即ち、ランボルギーニ・イオタという車は、噂だけが一人歩きする“謎の車”だったのです。

しかし、そんな謎めいた車だったからこそ、当時の子供達の心を鷲掴みにしたのかもしれません。スーパーカーブームが巻き起こった70年代後半、当時の子供達は次々と現れるエキゾチックな車に胸を躍らせるのですが、“イオタ”だけは孤高の存在でした。同じランボルギーニ製のカウンタックやフェラーリ、マセラティに夢中になりながらも、何故か“イオタ”にだけは、誰もが敬意を表していました。この車が持っていたミステリアスな魅力が、
写真を通じて、プラモデルを通じて、子供達の心に強く突き刺さっていたのかもしれません。

この時代、多くのスーパーカーが、たくさんのメーカーからプラモデルとして発売されました。ランボルギーニ・イオタもまた、他のスーパーカー同様、各社から数多くプラモデルが発売されました。今回御紹介したグンゼ産業の製品もその中の一つですが、モーター走行、ライト点灯というギミックを備えながらも、実写を出来る限り再現しようとした素晴らしいキットではないかと思います。




既に絶版となり、現在は入手不可能ですが、久しぶりにこのモデルを手に取り、埃を払い、窓に青く塗られた油性サインペンの筆跡を落としたその時、子供の頃の思い出、そして憧れが蘇ってきました。ハンドルを握り、彼方まで延びる道をどこまでもどこまでも走っていきたい-----。

いつか機会があったら、ランボルギーニ・イオタのプラモデルをもう一度つくってみたいですね。今度はしっかりと。
参考文献:株式会社ネコ・パブリッシング刊「Car Magazine」No.279,280,310,324
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