マイナス・ゼロ
久々に音楽の話をしましょう。
いまからウン十年前。バブル経済に入る直前くらいの頃。東京で開かれた国際音楽フェスタみたいなものがあって、司会は楠田枝里子で、会場はたしか武道館で、当然私はテレビでの視聴だった(笑)。
そのときの出演者に、目を惹く一グループがあった。名前は覚えていなかったが、ポーランドのロックグループで、曲目は「マイナス・ゼロ」という、意味不明なもの。

当時のポーランドはまだ共産政権かつ、数年前まで戒厳令が敷かれていた状況だったから、、ロックなどという当局の逆鱗に触れそうなジャンルなんて考えられなかったわけで、そんな国のバンドが日本にやってくるなんてことは珍しいを通り越して奇跡のように思えたのだった。
そんなわけで、当時共産圏に興味を示していた私は当然のようにこのバンドの演奏を見ていたのだが、ああ、やっぱりちょっとダサいな、垢抜けねぇな、日本はおろか(西)ドイツよりも遅れてるな(笑)と思いつつ聞いていると------。
「こんなの見て何が面白いのさ!」
と妹に激怒され、あえなくここで視聴を打ち切ったのであった(苦笑)。ま、妹の言うことも判らなくもない(笑)。
それでもこの名も知らぬバンドのへんてこな曲「マイナス・ゼロ」の、ボーカルの兄ちゃん(私の従兄弟にちょっと似ている;笑)が首から下げたリード楽器(「8時だよ全員集合!」の「少年少女合唱団」のコーナーで時折使ってたやつ)で吹く“ぷぷぷ、ぷーぷぷぷ”の後の“おぅおぅおぅおぅ!”のコーラス(?)、そして気の抜けたような声によるサビの“まいなすじぇろぉ~”は、今日に至るまで耳に残っていた--------。
さて、二十一世紀に入り17年目の現在、インターネットなる情報網が世界中に張り巡らされた昨今にあって、この「マイナス・ゼロ」なる楽曲を唄っていたポーランドのバンドのことについて、いくらかの知見が得られるかもしれない------と、この曲のサビを口ずさんだとき、ふと思い立ちましてね、調べてみることにしたんですよ。
まあ、それでも昔のことだし、ポーランドという(日本人には)なじみの薄い国のことだしなぁ……。
なんて思ってたら、ありましたよ(驚)。正確には“マイナス・ゼロ”ではHitしなくて(同名の企業が表示されてしまう)、“Minus Zero Poland”で検索したんですけどね。
そうしたらそこに表示されているのは、いかにも昔のパンクっぽい井手達-----だが、今ひとつ垢抜けてない兄ちゃんたちのPV。
早速視聴--------。
うん、これこれ。間違いない。ライブで見たリード楽器は吹いてないけれど、そのイントロは同じだったし、その次の“オゥオゥオゥオゥ!”で確信。そしてサビはやっぱり“マイナス・ジェロォ~!”でした。いや、もっとちゃんとした発音でしたが(笑)。
ということで無事発見------で終わりではなく、もう少し調査。
するとこのバンドは「Lady Pank」という名のポーランドのバンドで、1981年に結成。1991年にいったんは活動を終了するものの、1994年に再結成。幾度かメンバーチェンジがあったものの、ギターのJan BorysewiczとボーカルのJanusz Panasewiczの二人はいまもこのバンドのメンバーとして在籍しているのだとか。
いや、これはポーランドの人々にとっては、レジェンド級のロックミュージシャンなのではないですか!
振り返ってみれば1981年というのは、事実上のクーデターにより政権を掌握したヤルゼルスキ将軍が戒厳令を布告した年。ポーランドはこの前後に深刻な政治危機・経済危機にあって、事態の正常化に内外から有形無形問わず、さまざまな圧力が掛けられていた。
そんな二進も三進もいかない状況を力ずくで打開を図ったヤルゼルスキ政権により、市民生活は大きく制限され、民主化を求めた自主管理労働組合“連帯”は非合法化。多くの活動家やジャーナリストたちが逮捕され、少なくない血が流された------そんな時代である。
さらに西側からの制裁もあって、市民生活はさらに困窮を極め、日用品はおろか食料品の確保すら困難になる有様だった。
そんな時代にもかかわらず、西側の退廃した若者文化の象徴と東側が毛嫌いしたロック音楽------それもその中で最も異端なパンクが、ポーランドという国で演奏されはじめたということに驚愕を禁じえない。下手すれば投獄されても不思議ではない-------そう思いさえするのだが、実際は当時の西側の人間が想像するほどには(ポーランドでは)厳しくなかったらしい。さすがに、ソ連を刺激するような内容はタブーだったようだが、一足先に西側とほぼ変わらない状況まで自由が許されていたハンガリーほどではないにしても、それなりの自由がポーランドでもあったらしい。
なるほど、戒厳令が解かれた後、(ソ連の指導者がゴルバチョフとなり、悪名高い“ブレジネフ・ドクトリン”が破棄されたことも背景にあるとはいえ)、ハンガリーと肩を並べるかのように民主化に舵を切り、旧共産圏ではじめて非共産政権が誕生したのも合点がいく。

まあ、そんな難しい話を抜きにしても、レディ・パンクというバンドは、ポーランド民主化という激動の時代とともにあったレジェンドなのだろう。つい最近催されたライブ映像を見る機会があったのだが、冒頭のデビューアルバムからの一曲、そしてトリに演奏された「Mniej niz zero」※を聴衆が一緒になって口ずさむその姿を見て、この曲が苦難を乗り越えたポーランドの人々に今なお深く刻まれているのだと強く感じるのだった-------。
※「マイナス・ゼロ」の原題かつ原語版。「Minus Zero」はこの曲のインターナショナル版(英語版)なのだ。
さて、今回紹介した「マイナス・ゼロ」のPVにも少し触れておこう。
絵面はそことなく垢抜けなさが残るものの、その映像センスは数々の名監督を生み出したポーランドらしい皮肉に溢れたもの。残念ながら訛りの強い英語のため歌詞が聞き取れないので、映像と詩の内容が一致しているのかはわからないが、ピンク色のシャーマン戦車、極太のソーセージ(当時のポーランドでは食肉不足)、軍服着たお姉さん(笑)が砲塔にまたがったり、スーツを着たオッサンと戦車の中で情事を思わせる描写、そしてソーセージを咥えて逃げるジャーマン・ダックスフント(多分深い意味はないのだろうけど、ロシアとドイツに蹂躙された歴史を持つポーランドということで、どうしても勘ぐってしまう;笑)に大爆笑!



西側向けとはいえ毒のある内容で、よくこんなのが創れたなと思いつつ、それができたからこそポーランドは民主化できたのだなとも思ったのでした。
ポーランド、万歳!
いまからウン十年前。バブル経済に入る直前くらいの頃。東京で開かれた国際音楽フェスタみたいなものがあって、司会は楠田枝里子で、会場はたしか武道館で、当然私はテレビでの視聴だった(笑)。
そのときの出演者に、目を惹く一グループがあった。名前は覚えていなかったが、ポーランドのロックグループで、曲目は「マイナス・ゼロ」という、意味不明なもの。

当時のポーランドはまだ共産政権かつ、数年前まで戒厳令が敷かれていた状況だったから、、ロックなどという当局の逆鱗に触れそうなジャンルなんて考えられなかったわけで、そんな国のバンドが日本にやってくるなんてことは珍しいを通り越して奇跡のように思えたのだった。
そんなわけで、当時共産圏に興味を示していた私は当然のようにこのバンドの演奏を見ていたのだが、ああ、やっぱりちょっとダサいな、垢抜けねぇな、日本はおろか(西)ドイツよりも遅れてるな(笑)と思いつつ聞いていると------。
「こんなの見て何が面白いのさ!」
と妹に激怒され、あえなくここで視聴を打ち切ったのであった(苦笑)。ま、妹の言うことも判らなくもない(笑)。
それでもこの名も知らぬバンドのへんてこな曲「マイナス・ゼロ」の、ボーカルの兄ちゃん(私の従兄弟にちょっと似ている;笑)が首から下げたリード楽器(「8時だよ全員集合!」の「少年少女合唱団」のコーナーで時折使ってたやつ)で吹く“ぷぷぷ、ぷーぷぷぷ”の後の“おぅおぅおぅおぅ!”のコーラス(?)、そして気の抜けたような声によるサビの“まいなすじぇろぉ~”は、今日に至るまで耳に残っていた--------。
さて、二十一世紀に入り17年目の現在、インターネットなる情報網が世界中に張り巡らされた昨今にあって、この「マイナス・ゼロ」なる楽曲を唄っていたポーランドのバンドのことについて、いくらかの知見が得られるかもしれない------と、この曲のサビを口ずさんだとき、ふと思い立ちましてね、調べてみることにしたんですよ。
まあ、それでも昔のことだし、ポーランドという(日本人には)なじみの薄い国のことだしなぁ……。
なんて思ってたら、ありましたよ(驚)。正確には“マイナス・ゼロ”ではHitしなくて(同名の企業が表示されてしまう)、“Minus Zero Poland”で検索したんですけどね。
そうしたらそこに表示されているのは、いかにも昔のパンクっぽい井手達-----だが、今ひとつ垢抜けてない兄ちゃんたちのPV。
早速視聴--------。
うん、これこれ。間違いない。ライブで見たリード楽器は吹いてないけれど、そのイントロは同じだったし、その次の“オゥオゥオゥオゥ!”で確信。そしてサビはやっぱり“マイナス・ジェロォ~!”でした。いや、もっとちゃんとした発音でしたが(笑)。
ということで無事発見------で終わりではなく、もう少し調査。
するとこのバンドは「Lady Pank」という名のポーランドのバンドで、1981年に結成。1991年にいったんは活動を終了するものの、1994年に再結成。幾度かメンバーチェンジがあったものの、ギターのJan BorysewiczとボーカルのJanusz Panasewiczの二人はいまもこのバンドのメンバーとして在籍しているのだとか。
いや、これはポーランドの人々にとっては、レジェンド級のロックミュージシャンなのではないですか!
振り返ってみれば1981年というのは、事実上のクーデターにより政権を掌握したヤルゼルスキ将軍が戒厳令を布告した年。ポーランドはこの前後に深刻な政治危機・経済危機にあって、事態の正常化に内外から有形無形問わず、さまざまな圧力が掛けられていた。
そんな二進も三進もいかない状況を力ずくで打開を図ったヤルゼルスキ政権により、市民生活は大きく制限され、民主化を求めた自主管理労働組合“連帯”は非合法化。多くの活動家やジャーナリストたちが逮捕され、少なくない血が流された------そんな時代である。
さらに西側からの制裁もあって、市民生活はさらに困窮を極め、日用品はおろか食料品の確保すら困難になる有様だった。
そんな時代にもかかわらず、西側の退廃した若者文化の象徴と東側が毛嫌いしたロック音楽------それもその中で最も異端なパンクが、ポーランドという国で演奏されはじめたということに驚愕を禁じえない。下手すれば投獄されても不思議ではない-------そう思いさえするのだが、実際は当時の西側の人間が想像するほどには(ポーランドでは)厳しくなかったらしい。さすがに、ソ連を刺激するような内容はタブーだったようだが、一足先に西側とほぼ変わらない状況まで自由が許されていたハンガリーほどではないにしても、それなりの自由がポーランドでもあったらしい。
なるほど、戒厳令が解かれた後、(ソ連の指導者がゴルバチョフとなり、悪名高い“ブレジネフ・ドクトリン”が破棄されたことも背景にあるとはいえ)、ハンガリーと肩を並べるかのように民主化に舵を切り、旧共産圏ではじめて非共産政権が誕生したのも合点がいく。

まあ、そんな難しい話を抜きにしても、レディ・パンクというバンドは、ポーランド民主化という激動の時代とともにあったレジェンドなのだろう。つい最近催されたライブ映像を見る機会があったのだが、冒頭のデビューアルバムからの一曲、そしてトリに演奏された「Mniej niz zero」※を聴衆が一緒になって口ずさむその姿を見て、この曲が苦難を乗り越えたポーランドの人々に今なお深く刻まれているのだと強く感じるのだった-------。
※「マイナス・ゼロ」の原題かつ原語版。「Minus Zero」はこの曲のインターナショナル版(英語版)なのだ。
さて、今回紹介した「マイナス・ゼロ」のPVにも少し触れておこう。
絵面はそことなく垢抜けなさが残るものの、その映像センスは数々の名監督を生み出したポーランドらしい皮肉に溢れたもの。残念ながら訛りの強い英語のため歌詞が聞き取れないので、映像と詩の内容が一致しているのかはわからないが、ピンク色のシャーマン戦車、極太のソーセージ(当時のポーランドでは食肉不足)、軍服着たお姉さん(笑)が砲塔にまたがったり、スーツを着たオッサンと戦車の中で情事を思わせる描写、そしてソーセージを咥えて逃げるジャーマン・ダックスフント(多分深い意味はないのだろうけど、ロシアとドイツに蹂躙された歴史を持つポーランドということで、どうしても勘ぐってしまう;笑)に大爆笑!



西側向けとはいえ毒のある内容で、よくこんなのが創れたなと思いつつ、それができたからこそポーランドは民主化できたのだなとも思ったのでした。
ポーランド、万歳!
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